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町田啓太の両親は教師で祖先がすごい!曽祖父は久吉!【ファミリーヒストリー】

劇団EXILEの俳優として活躍している町田啓太さん。

2022年には女優の玄理さんと結婚しています。

そんな町田啓太さんの両親は教師という噂や両親の年齢・職業について、また祖先がすごいという噂についても調べてみました。

町田啓太の両親は教師?父親と母親の年齢や職業は?

両親は教師

町田啓太さんは、1990年7月4日生まれで、年齢は2024年で34歳になります。

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(https://www.ldh.co.jp/)

群馬県東吾妻町出身です。

2010年に「第3回劇団EXILEオーディション」で合格。

以降、俳優として活躍しています。

2023年11月24日のNHK「ファミリーヒストリー」によると、町田啓太さんの父親は町田晃一さんというそうです。

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1962年生まれで、年齢は2024年で62歳になる年です。

母親は町田敦子さん(旧姓・斎藤)というそう。

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父親と同じく1962年生まれで、年齢は2024年で62歳になります。

職業は2人共教師なのだとか。

また、実家は代々兼業農家とのこと。

そのため、教師として働きながら、

  1. 稲作
  2. 畑作
  3. 養蚕

などの農業もやっているようですね。

両親は大学の同級生

町田啓太さんの両親は、宇都宮大学で同級生だったのだそうです。

大学でバードウォッチング部に入部したという父・町田晃一さん。

そこで出会った母・町田敦子さんに一目惚れしたのだとか。

一方、町田敦子さんは町田晃一さんを同級生と思わず「OBの方ですか?」と聞いてきたそう。

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町田晃一さんはそんなに年上に見られたのかとショックでしばらく立ち直れなかったといいます。

しかし、町田敦子さんは次第に社交的で誠実な晃一さんの人柄に惹かれていったのだとか。

そして1986年、24歳のときに結婚しています。

素敵な馴れ初めですね。

町田啓太の祖先がすごい!曽祖父や祖父についても!【ファミリーヒストリー】

父方の祖先は源氏の武士

2023年11月24日のNHK「ファミリーヒストリー」では、町田啓太さんの父方の祖先が源氏の武士であることが明かされていました。

町田啓太さん自身は「源平合戦で敗れた平家の血筋なのではないか」と家族から聞いていたようですが、どうやら違ったよう。

町田啓太さんの父方の祖先は、町田勘右衛門さんといいます。

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1861年に亡くなった方で、もとは群馬県東吾妻町の実家から約4キロ離れた広野の出だったのだとか。

広野は全員町田姓の集落で、町田啓太さんの先祖も江戸時代中期まで同集落で暮らしていたそう。

また「群馬県姓氏家系大辞典」には、広野にいる町田姓は源平合戦頃の落人だと記載されています。

「【吾妻町】小泉字広野は町田姓の集落で、同地の町田姓は源平合戦頃の落人

1184年、現在の滋賀県大津市南部(近江国粟津)で、源平合戦の内乱の1つ「粟津の戦い」が起こりました。

この戦は、源頼朝が派遣した東国諸将と木曽義仲による源氏同士の戦いです。

このとき主導権争いで敗れた源氏の武士は落人となって各地に散り、広野一帯にも逃れてきたのだとか。

隣接する渋川市北橘町上南室にも町田姓の集落があり、そちらには木曽義仲の家臣で、義仲四天王と呼ばれた楯親忠(たて・ちかただ)が落ち延びていたそう。

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楯家の石碑には、この楯親忠が氏を変え、名を隠したことが伝えられていました。

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楯親忠は著名な武士だったそうで、追手を逃れるために名前を変えたと言われています。

その時代わりに名乗ったのが町田姓だったのだとか。

ということは、もともと町田啓太さんの祖先は、義仲四天王の楯親忠と同じ一族だったことになりますね。

町田啓太さんの家族は祖先が源平合戦で落ち延びたと聞いていたため、平家の子孫だと勘違いしたようです。

ちなみに他の義仲四天王の名字も広野一帯に多いことから、四天王はともにこの地域へ逃げてきたのではないかと言われています。

父方の曾祖父は海軍に徴兵

町田啓太さんの父方の曽祖父は町田久吉さんといいます。

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1943年9月、当時38歳だった町田久吉さんに太平洋戦争の召集令状が

横須賀海軍施設部の土木建築作業者として任務しました。

町田久吉さんの部隊が一番多く派遣されたのはソロモンとニューギニアだったのだとか。

現地で防御活動に従事する航空部隊の基地を作っていたそうです。

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久吉さんは終戦の翌月、故郷の群馬県東吾妻町に戻りました

ところが、その体は病に冒されていたそうです。

町田啓太さんの祖母・町田光江さんによると、病の正体はマラリアだったのだとか。

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戦地でもらってきたのでしょう。

そして復員から半年後、1946年に40歳の若さで亡くなっています。

その3年後の1949年には、曾祖母・町田ぜんさんも43歳で死去

戦争の悲惨さがよく分かりますね。

父方の祖父はブロック職人

町田啓太さんの父方の祖父は町田七郎さんといいます。

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町田七郎さんは3人兄弟でした。

  1. 長男:七郎
  2. 長女:朝子
  3. 次女:千鶴子

若くして両親を亡くした町田七郎さんは、妹たちを支えるため、中学を卒業すると同時に東京へ出稼ぎに

当時、朝鮮戦争の特需で、東京は建設ラッシュだったそう。

知人の伝手を頼り、東京のブロック職人の見習いになったという町田七郎さん。

少しのミスでもかなづちが飛んでくるような過酷な環境に耐えながら、都内の商業施設や住宅の建設現場で経験を積んだのだとか。

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稼いだお金は毎月故郷の妹たちへ仕送りしていたそう。

そして、東京で8年の修業を積み、23歳のときに帰郷。

近所の娘だった光江さんと1961年に見合い結婚し、翌年町田啓太さんの父・町田晃一さんが生まれています。

地元の建設会社に就職した町田七郎さんは、腕利きの職人として知られるように。

町田七郎さんが作ったブロック塀がこちらです。

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きれいですね。

性格は頑固で、現場で「こうしてほしい」と指示されても、絶対に自分のやり方を曲げなかったそう。

町田晃一さん曰く、町田七郎さんは仕事にとてもプライドを持っていて、仕上がりが気に入らないとすべて壊してしまったのだとか。

生粋の職人気質だったのでしょう。

共働きで忙しかった両親に代わって、町田啓太さんや姉妹のことも厳しく躾けてくれたという町田七郎さん。

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町田啓太さんは町田七郎さんにお箸の持ち方を延々と直されたこともあったそう。

そんな町田七郎さんは50代でがんを患い、2016年に79歳で亡くなっています。

亡くなる10日前、町田啓太さんがNHKの番組に出演すると聞いた町田七郎さんは、病院で「孫が出るからテレビが見たい」と頼んで見たのだそう。

厳しいながらも愛情深いおじいちゃんだったのでしょうね。

母方の祖先は宮司

町田啓太さんの母・町田敦子さんの故郷は、栃木県那須烏山市です。

母方の5代前の先祖は、齋藤斎(いつき)さんというのだとか。

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1826年5月15日生まれで、1903年2月1日に亡くなっています。

ファミリーヒストリーでは、齋藤斎さんが烏山藩主の建てた「東江神社」の社掌(宮司)だったことが明らかになっていました。

社掌は、寺子屋の師匠のようなもので、地域の文化のリーダーでもあったそう。

城主からも尊敬される立場だったのだとか。

しかし、明治維新で烏山藩が消滅

激動の時代に巻き込まれます。

母方の高祖父は天皇の先生

町田啓太さんの母方の高祖父は、斎藤久米治(くめじ)さんといいます。

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明治維新で新しい時代となったため、立身出世のため勉学に励んでいたという斎藤久米治さん。

「自治業界發達誌 昭和大典記念」には、斎藤久米治さんについて、

「幼にして神童の称えあり」

と記されており、地元で「神童」と評判の子供だったことが伺えます。

国語や漢学が得意だった斎藤久米治さんは、1881年に18歳で小学校の教員免許を取得

その後、当時10倍以上の倍率があり、有能で人徳があり学識もある人でないと受からないと言われていた中学校の教員免許も取得しています。

明治28年8月の「改正官員録」によると、斎藤久米治さんは夏目漱石さんと同じ時代に同じ四国で教壇に立っていたのだとか。

  • 斎藤久米治:徳島県尋常師範学校の助教諭
  • 夏目漱石(夏目金太郎):愛媛県尋常中学校の嘱託職員

30歳のときには、東京の大手出版社から「小学作文教科書(教師用・生徒用)」の作成依頼を受けます。

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教師用の教科書まで作っていたなんて驚きですね。

その後、故郷栃木に帰り、6つの学校の教師を経験。

「栃木県佐野高等女学校(現・栃木県立佐野東高等学校)」では校長も務めました。

この頃、大正天皇の前で授業する任「御前教授」も経験したのだとか。

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その後も、85歳で亡くなるまで私財をなげうち、地元の教育の発展に尽力したそうです。

素晴らしい方ですね。

母方の曾祖父は関東大震災で被災

町田啓太さんの母方の曽祖父は、斎藤珍彦(うつひこ)さんといいます。

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語学が堪能だった斎藤珍彦さんは、1923年にアメリカ資本の石油会社「ヴァキューム・オイル」に就職しました。

このヴァキューム・オイルは現在世界第2位のシェアを誇る「エクソンモービル」の前身です。

工業化を進めていた当時、機械を効率よく稼働させる潤滑油の需要が高まり、急速に業績を伸ばした企業でした。

丸の内にあった東京支店に配属された斎藤珍彦さん。

経理の仕事で、月給は100円だったそう。

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大正時代の1円は現代の4000円相当という話があるため、月給40万円ほどだったのでしょうか。

当時の一般的なサラリーマンの初任給の2倍だったのだとか。

その後、横浜支店に移りますが、1923年9月1日に関東大震災で被災

斎藤珍彦さんは逃げ切れず瓦礫の下敷きとなりました。

しかし、その後起きた大きな余震で瓦礫がずれて逃げ出せたそうです。

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なんとか建物内から脱出した斎藤珍彦さんでしたが、外に出ても辺りは一面火の海。

横浜市内の300箇所から出火していたのです。

この震災での死者・行方不明者はおよそ10万5000人で、斎藤珍彦さんも同僚を亡くしています。

よく生き延びられましたね。

そして、1932年にヴァキューム・オイルを退職。

故郷の那須烏山市に戻り役場に就職しています。

私生活では曾祖母のトキさんと結婚し、6人の子供に恵まれました。

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その子供のうちの1人が祖母の斎藤克子さんなのです。

そして、斎藤克子さんが母・町田敦子さんを生み育て、父・町田晃一さんと出会い、町田啓太さんへと命をつなぎました。

こうして家系を辿ってみると、町田啓太さんの祖先は父方も母方もすごい方たちばかりですね。

今後も町田啓太さんの活躍に注目です。

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